サッカー日記ブログ版

TVたまにスタジアムでのサッカー観戦記

友達

年末、飲んだときに酔っぱらった友人にすすめられた安部公房の『友達』を読んでみました。かなり奇妙な話でした。最近は半沢直樹でおなじみの池井戸潤を続けざまに読んでいたので(先週『俺たちバブル入行組』を読了)、安部公房の世界観に翻弄されてしましました。

なにしろ、一人暮らしの男の部屋に知らない家族(9人家族)がいきなり来て、住み着いてしまうというんだから、なんだかわかんない。どうも家族はこの男の孤独を癒してあげようとしているようなんだけど、男には完全に迷惑。男にとっては望んでいない愛だとか友情だとかを知らない奴らが押し付けてくる。婚約者とは別れるはめになるし、あげくの果てには「自分のことしか考えてない」と非難までされる。半沢直樹を読み慣れている昨今なので、そんな理不尽なことばっかりやってると、お前ら最後は痛い目あうぞ、なんて思って結末を楽しみに読んでたんだけど、結果痛い目にあったのは男の方という恐ろしさ。これが安部公房なんですね。知らないけど。

安部公房はかなり前に『砂の女』だとか『箱男』など3冊程読んで嫌いじゃなかったし、映画の『砂の女』も好きだったんだけど、いつからかこういうのを読んで考えるのも面倒くさいなと思うようになりだしてきた。そうは言っても、読んじゃえば結局なんだかんだ考えて、今の世の中と何ら変わらんなとか、この話とは真逆のように見えるスマホに登録してある人はみんな友達なんて言い張っている人の感覚も、まさにこの話のタイトルである『友達』にぴったりの世界観じゃないなんて思ってしまいました。

 

いろんな人からいろんな事を言われてしまうのはてサッカーの監督の宿命だけど、今節のプレミアリーグもいろいろ言いたい人は多いんじゃないかな。さっきマンUフルハムをみたんだけど、0-1から後半逆転して勢いを増したマンUが今節はやっと勝ちそうだなと思ってたら、なんと追加タイムで追いつかれてドローでした。これじゃ口もだしたくなる。

当然、言いたい相手はモイーズ監督。あれだけ責めて勝てないというのはサッカーの不思議じゃ済まされない。監督に問題あるんじゃない。フルアムマンUに好きなだけクロスを上げさせて、ゴール前をガチガチな守りではじき返そうという意図だったら大したものだけど、そこまでの戦術はなかったはず。ただ、ガンガンパンチを食らっても耐えていたというのがフルハムの現実でしょ。だとすると、マンUが決めきれない、守り切れない原因がどっかにあるということなんだろうな。

あれだけの選手が揃っていてもそうなっちゃんのはある意味奇跡的な感じもするね。香川も相変わらず使われなかったし、どうも、モウリーニョがマタを使わなかったのとは、訳が違う感じもするよね。ここまで使わなかった香川を使ってうまくいったら自分の見る目の無さ露呈してしまう感じで嫌なんじゃないかとさえ思えてくる。まあ、これは完全に半沢直樹の読み過ぎから出る発想だけど。

 

そういえば、安部公房の『友達』に中に「逆らわなければ、ただの世界に過ぎなかったのに」という台詞があったな。男の部屋に住み着いた家族の中の一人が男に言ってた。結局、男は何も悪くないのに、どんどん追いつめられていくんだけど、モイーズも素直に昨シーズン同様にチチャリートや香川を我慢して使ってれば追いつめられることもなかったのかも。自分のカラーを出そうとするのは分かるけど、結果的に流れに逆らったということになっちゃったみたい。そうなるとどんどん何かが逆流しちゃう感じさえあるから恐いね。

『友達』は、自分の心の中にへんな人たちが住み着いちゃった多重人格者の話なのかなと思ったりもしたんだよね。だとすると、自分自身に征服されてしまった話ともいえるんだな。モイーズの場合、頑固そうなので、いろんな迷いでドツボに嵌まる事はなさそうな気がする。それにマンU自体が弱い感じがしないので、ちょっとした事で好転するかもしれない。エバートン時代のモイーズはいつも後半驚異的に追い上げて最終的にそこそこの順位まで上げていたからな。もちろんそれを望んではいないけど。もしそうなったら、モイーズの監督としての評価って、後半追い上げてそこそこの順位で終わる監督ってことで固定しちゃいそう。